私は知らないおじさんに自分のパンツを売ったりはしない。気持ち悪いからだ。

 

 

 

知らないおじさんにパンツを売っている友人のことをどうしても考えてしまう。


数日経っても今日もやっぱり頭を離れなかった。


手渡しで売っているらしい。

 

 


一体彼女の話の何がそんなに私の心を掴んだのだろうと思う。


私の生きている常識の内では考えられない非日常的な行動を、
身近な友人がなんともないような顔をして日常的に成し遂げていたからだろうか。

 

 

 

 


言い遅れたが、かつて私は特別な人間になりたかった。

 


どうしたら特別な人間になれるか最後までわからないまま、
普通の人間として生きると腹を括り、一般企業に就職して数年経った今でも、
私の心は正体のわからない「特別」を追い求めてしまっているのかもしれない。

 


「知らないおじさんにパンツを売る」という
常人では考えられない行動をリアルな世界で取っている彼女の姿は
紛れもない「特別な人間」として私の目に映った。

 

 


私は友人の告白に衝撃を隠せないまま、
しかし好奇心を抑えられずに恐る恐る疑問点を投げかけ、
それに淡々と応える彼女の回答の全てに心を震わせ、

興奮の冷めないまま自宅へ帰り、数ヶ月前に入籍した夫に一部始終を話す。


新婚である。

 

 


ネットで顧客を募り手渡しで現金と交換していること


新品のものは一度履いてから売っていること


基本的に一枚3,000円で売れること


オプションを付ければ単価を上げることもできること

 

 


彼女から聞いた話の詳細を堰を切ったように話した後、
私は自分がいかに平凡な普通の人間であるかを嘆いた。

 


夫は頭を抱えながら黙って私の話を聞き、
そろそろうるせぇ、と思ったのだろう。


「そんなに気になるなら自分も売ってみたらいい」


と彼は言った。

 

 


夫の寛容さに感謝しながらも私はその言葉を一蹴する。

 

 

 


私は知らないおじさんに自分のパンツを売ったりはしない。
気持ち悪いからだ。

 

 

 


自分の履き古したパンツをお金を出してでも手に入れたいと思う知らないおじさんが存在し、
おじさんの手に渡ったパンツがその後どのように使われどのような扱いを受けるのか
想像しただけで血の気が引いてくる。

 

 

 

 


そこではたと気付く。


この話を打ち明けてくれたとき、
友人は「気持ち悪い」という単語を一度でも使っただろうか。

 

 


あのとき、友人の口ぶりからは一瞬たりとも

「気持ち悪い」という感情を感じ取ることはなかった。
彼女はただ淡々と、一連の流れについて事実のみを語った。
まるで要らなくなった私物をメルカリに出品する手順を説明するように。

 


彼女がただ純粋に、お金を得るための手段としてパンツを売り、
自分が手離すものに対しては何の執着もないその様子は、
今思えば違和感すら覚えるほどだった。

 


おそらく彼女には、
「知らないおじさんに自分のパンツを買われる」ことを"気持ち悪い"と感じるための
常人が持ち得る 何か が、完全に欠落しているのではないか。

 


そのことを夫に提言すると、
夫は反対に、何かが“ある”ために気持ち悪さを感じないのではないかと言った。
(夫も一緒に考えてくれている)

 

 


何かが“ある”とすると、
真っ先に思い浮かぶのは承認欲求だ。


しかし彼女の言葉からはそれすらも感じられなかった。

 


実際に会ったことがないからわからないが、
例えばパンツではなく体を売っている場合は
金銭の他にも寂しさや承認欲求を満たすことを目的としている人がいるとしても納得がいく。


しかしパンツを売ったとして、売り手の承認欲求は満たされるのだろうか。

 

 

また、彼女は一般企業で正社員として勤務しているため

趣味のために必要とは言っていたが、

生活していくためにどうしても稼がなくてはならないという「金銭の必要性」が“ある”とも考えにくい。

 

 

 


いずれにせよ、
自分のパンツが知らないおじさんの手に渡ることの気持ち悪さを凌駕するほどの「何か」が
彼女に"ある/ない"かもしれないことに私はとても興味を持った。

 


そしてその「何か」こそ、彼女を特別な人間たらしめている要因ではないかと考えた。

 

 

 

あらかじめ言っておくが、

この論文(今後もし気が向いて続きを書くようになればいずれ論文になります)は決して

パンツを売ったり買ったりすることを助長するためのものではなく、

あくまでも売り手の特別性(悪く言えば異常性)について研究し、それを明らかにすることで

「特別な人間」とは何かについて考えていくというものである。

 

 

もしかすると全て無駄なことかもしれないが

上記を解明すれば、平凡な私もすこしは「特別」に近づくことができるかもしれない。

私はまだ特別な人間になりたい。